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愛と仕事と金

才能ではなく知識で感覚ではなく経験だという話

ランドセルを背負い走り回っていたころ、宿題がでた。風呂に入って自分の体積を測れというものだったが私は大いに間違えた。

この時先生に言われたことは感覚的に外れかどうか分かれよということ。それが近いのか外れているのか答えを出したときにわかるだろっていうことでした。

大人になるまでにこういう言葉を時折耳にしてきたけれど、実はこれは感覚の話ではなく知識の話だっていうこと、そしてそういう言葉に騙されてはいけないよという話。

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0

経験による感覚

 あなたは1kgの鉄を見たことがあるでしょうか。あるいは1kgの綿を見たことがあるでしょうか。そのものを見たことがある人はあまりいないでしょう。しかしわれわれは1kgのダンベルや1kgを体重計から減算しているのは見たことがあります。

 そう思えば大体の大きさから目の前に10kgの鉄を置かれてもこれが1kgだとは答えず、一人分の衣類を見てこれが10kgを超えるとは答えることもありません。

 このとき、感覚的にわかるというのは身の回りにあるもので知っている「経験や知識」であったと言えます。

 大間違いをした小学生の私は1kgと1リットルの関係をどうやら覚えていなかったか知らなかったのでしょうね。あの頃は人よりも勉強の嫌いな子供でしたからそんなこともあるでしょう。

才能と経験

 音楽系の道に進んだ人がいたとして、こんななのは感覚だという人がいたとしても、それは昔から培った経験から生まれる感覚かもしれません。音の出し方や音の正確さなど必要な感覚は多くありますが、ほとんどは経験による感覚です。

 特に小さい頃はこんなのもできないなら辞めたほうがいいと安直に言われますが、それもまたそれに必要な感覚が成長していないだけの場合が多くあります。

 それは世にいう純粋な才能とは別の話でそれが当たり前になるほどの経験を積んで来た結果です。

知識と経験

 ある程度歳を重ねてから何かを始めようとする時もまた「才能が」といいがちです。さらにそこには経験を重ねるだけの時間もありません。しかしそこにもまだ救いがあります。

 それが知識です。経験は言ってみれば体で覚えるというやつで、知識は経験を言葉で理解していく作業です。知識を得るためにはそのための基礎知識が必要ですが経験よりも多くのことを短時間に得ることができます。そのため経験だけを頼りにする人と知識だけを頼りにする人では後者のほうが伸びやすくなります。これが言ってみれば学歴やテスト結果が日本で求められている理由の一つです。

崩れる才能の牙城

 小さい頃経験の差は1と0であることが多くあります。野球をやったことのある子と全く無い子、ピアノを弾いたことがある子と無い子などです。

 しかしこれはごく小さい経験による差であってこれを才能であるかのように勘違いさせてしまうと一気にその牙城を崩されることになります。もちろん大人になったとしてもこの現象はよくあります。それと同時に感覚的にそのことを知っている人が、周りに学習をさせないという手で自分の優位性を守ろうとすることもよくありますね。

おしまい

 才能を言い訳に諦めるには早いのかもしれないし圧倒的経験を今からどう取り返すかという絶望かもしれないという話でした。ほとんどの事は経験と知識で補うことができますし追いつくことができます。しかし最後の壁になるものは才能であり、最後まで差がわからないのが才能です。  習熟の早さはそれ自体の才能とは別ですからね。

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