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愛と仕事と金

するべきこととあるべき姿

すべきとあるべきの違いで上司力は大違い

大人になると勝手に誰かより上の立場を取るようになる。全く経験のない場所にいても若い人に偉そうになったりする。 そうこうしているうちに部下ができたりして指示をする必要がでる。その時間違いやすいことは「行動」と「姿」のとりちがいである。

安岡正篤師に学ぶ人性と経営―人間としてあるべき姿から経営を考える

するべきこと

 するべきことは多い。仕事をすれば全てをしなければいけないことで埋めようとする人も多く、それ以外は仕事ではないと判断しがちの時代でもある。

 しかし行動が表すものはごく一部であると同時に、個人に拠って変わるものである。それを忘れて行動に執着すると本来の目的を見失い崩落を迎えることになる。

 例えばするべきこととはエクセルでデータを処理することだとして、それをどのように処理するのかは幾つかパターンがある。これまでの慣習でこうしろと言われても確実で早く済む新しい方法があるのならそれを否定してまで持ち出す慣習はない。そうでなければ初めは効率的で画期的だったそれも次の瞬間から遅れていくことになる。  そう言えば正確さと早さはある時日本のお家芸であったけれど、いつの間にかそれはただの文化遺産のようなものになっている。

 サッカーの練習をするとして、その量や方法は必ずしも同一のものが良いとは限らない。必要な技術や補う技術が違うからでもあり、確立した確実な練習というのはほとんど存在しないからでもある。  しかしチームとしてはまた別の一人として人物像を与えることになる。

 本当にするべきことはごく一部であると同時に個性の出ている部分でもある。 つまり「すべき」だという部分を注視すればその人の個性も見えてくる。見えてくるだけで全てではないことは言わずもがなというところでもあるが。

あるべき姿

 するべき行動とは個性であると同時にこうあろうとする姿を表した一部でもある。人はなろうとする人物像に近付こうと行動する。それが明確であればあるほどそうなる。ただややこしいことに影響を受けやすい人もいてその人物像がコロコロ変わることもある。  それは周りから見ると面倒なものでもあるが、総合的に見える目標の人物像というのもある。

 求める人物像はその人にマッチしなければ続かないし続けなければ得られない。そしてあるべき姿を明確にしなければ行動は明確にならない。

 未来を考えるときの質問に、何をしたいか、どんな人になりたいか、憧れている人は誰かというものがある。これらは全てあるべき姿を探すための質問である。何をしたいかというのも別にトイレに生きたいとか富士山の頂上で叫びたいとかそんなことを聞いているのではない。その行動の中から姿を探しているのだ。そして憧れている人とはあるべき姿を明確にしたものの一つなのだ。

 姿が明確になればなるほど行動は明確になり、急速にその姿に近づいていく。これまでの行動と矛盾するかどうかは「あるべき姿」からみて問題なければ問題ないのだ。

企業の人物像

 時間外の飲み会や集まりを避ける新人が多いという話もあるが、そこは行動により支配されているか姿に拠って支配されているかで変わる。多くの場合姿を示せない上司が悪い。と言われても私もこうして文章に起こしてなければ姿を示すことは難しい。

 企業とは一個人である。SONYソフトバンクもシャープもAppleもそれぞれの姿がある。それが行動として現れる。行動に執着した時その姿は崩れていく。

 企業が姿を示したとしても全社員にその姿を求めることはまた難しい。伝言ゲームは伝わらない前提で考えなければいけない。そのため強いリーダーのいる企業は社員全てが姿を持っていることが多い。上から順々に伝えるよりもトップがはっきりとした姿を示すことで全員に伝わるのだ。一個人に頼るという意味で怖い企業ではあるが、保たれている間はその力はそこいらの企業が束になってもかなわない。

 この企業としての姿の難しさはそれぞれが勝手に持ちがちであるということだ。 社員がそれぞれ勝手にあるべき姿を想像することで収集がつかなくなる。ばらばらになる。最近のIT企業で自由を標榜した結果瓦解した組織は多い。

 自由そうに見える企業でも瓦解しない場合は強いリーダーがいるか、瓦解しないだけの姿を共有できているのだ。

袂を分かつ理由

 行動は個性が出る。しかしそれによって袂を分かつというのは早計である。自分の行動ではできなかったり効果が薄いことを誰か別の行動がそれを埋めたり助けたりするからだ。自分の求めるもの以外を捨てるというのは1ミリの傷が致命傷になるということである。

 姿の違いで袂を分かつのなら良いのかといえばそれは個人の段階による。自分の今と合わないからと言ってそれがあるべき姿に寄与しないのとは別のことだ。全てが自分の糧になるというのもこういう部分から言われることで、「あわない」ことから得ることはあるのだ。

 しかし、どこかの段階でどうやっても合わせられなくなることもある。立場や環境だけでどうこうならない、それは確実に離れるタイミングでありあるべき姿を見つめ直すときだ。

時の流れ

 あるべき姿は変わる。難しいことを言うようだがゴールとしての姿は変わらないが、今あるべき姿は変わる。

 時代や経験が自分の欲する姿を変えるのだ。このことを方針がフラフラすることと混同してしまいそうだが、姿はいつの間にか変わっているものだ。決してあれが駄目だったからこうしようと目まぐるしく変えていくようなものではない。

あるべきすがた

 あるべき姿は目的を持って変えるものではない。いわゆる理想であり自分の中の神である。モテたいとか金儲けがしたいとかそういう事柄が先にあるものではない。目的は理想の遥か下にある一部でしかない。

 あるべき姿は探し続けなければいけないが、簡単にこうだと言えるものでもない。難しものだ。

 またあるべき姿だの何だという話は繊細なものである。誰かと話をするのは性的な嗜好のはなしをするようなものであり、共有することもまた難しい。ネットで見つけたコミュニティに入るほうがよほどはやい。

経営者が絶対に「するべきこと」「してはいけないこと」―50「Do’s」&「Don’ts」FOR BUSINESS SUCCESS