読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

素敵なはなし

素敵な話になればいい話、色恋と仕事

大人になった子供

大人になった子供

いつからこんな風になったんでしょうか。少し下の人の言うことを真剣に聞くためには注意が必要になり、もっと下の人の言うことには真剣な言葉にも言いくるめようとする。同じような年の人の言うことよりも自分の考えを優先し、少し上の人の言うことは反発し、もっと上の人の言葉は崇高になるか聞いたままゴミ箱へ投げ捨てる。

子供のまま大人になった人たち

自分の言うことには無意識に自信を持つ。

想像していた大人は何処にもいなくて、言い訳や高慢で無知な集まりであるように見える。
かと言って自分の中心部は14歳ほどの頃とさほどかわらない。その周りを取り繕うために本を読み人と会い失敗を喜ぶ。

もし大人に定義をつけるなら成人である20歳だろうか、それも18歳になったが戦争ならばもっと若くてもでなければいけなかったし、もっと昔は10に満たない歳から元服することもあった。

はて元服すれば大人だったのか。それは家の筋を継ぐために無理やり行うこともあったろうし、政争に使われるために行う事もあった。つまり本人の資質は関係なく放り出されたり閉じ込められたりした。しかしその儀式を過ぎた本人は確実に力をつけただろう。文武ともに責任を負わされるという事は何歳であれ力になる。

とすると現代の子供は、大人もだが責任の所在をあやふやにしすぎたのではないだろうか。知り合いの高校生の子供を持つ母親は、子供が学級の仕事を押し付けられて怒鳴り込んだと言っていた何かあれば怒鳴り込むとも言っていた。実際担任を変えてしまった事もあるようだった。
この母親の行動は自分の責任を無視しているように見える。子供がどう扱われたのであれ怒鳴り込む前に親である責任とは何か、子供に自分なりの解決をさせる事ではないのか。
親は大人は子供に自由でいてほしい、特に自分の子供教え子には自由を与えたい。しかし自由とやりたい放題とは違うのである。迷惑をかけてないとか関係ないとかそんな簡単な言葉でしか凄んで見せられない子供はひねているだけだ。

親であり大人であり先輩であるのなら、教師も力を押し付ける親に負けるだけではいけない。子供にも力で言葉で勝つだけではいけない。

殴り合いでしか解決できない人は問題があるが、殴り合いのできない人はそれで問題があるかもしれない。私は人を殴れない。殴り合いをした事もない。小さい頃殴られた事はあるが怖くなって殴れなかった。怖さに立ち向かう事は私にできなかった。結果はこんなに卑屈である。勝ち続けた人間は横暴になるか傲慢になるのだろうか。それだけではないだろう。

子供の頃どう過ごしたのかは影響力が大きい。大人は出来うる限りその環境を整えてやる必要がある。出来うる限り自分の言葉を出せるように待ち、出来うる限りやりたい事を支え、不条理だの理不尽を乗り越えるための心を育てる必要がある。

誰にそうしろという事はないが私はそうしたい。どうであれ見てくれた子供が私のおかげで今があると言ってくれる。私の子供ではないので、親子ではまた違う言葉にもなるだろうけれどそういう言葉を心に置いてくれるように擦り寄らず、媚びず、ただ人である事を見せ考えてていきたい。

途中からというかほぼ反省なんですが、たまにはこんなこともありますね。

タイトル以外の先を考えずに本文を始めるスタイルの結果って大抵こんなもんです。
タイトルと全体の一割くらいがお伝えしたい事。