素敵なはなし

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責任リテラシー

日本に限らず自己責任というのが言われがちな世の中になっている。

しかしそれは責任リテラシーの低い人に限ったものだ。

責任と判断 (ちくま学芸文庫)

個人の責任

 個人の責任は生きている上で最も持つ割合が大きい。自分の責任なのだから当然と言えなくもないけれど、実のところ責任の所在は一箇所に限らないので自己責任というのは覚悟と同じくらいのものでしかない。

 少し前の話になるが、紛争地域に行き捉えられた日本人に身代金を払うかどうかということがあったのはまだ多くの人が記憶しているだろう。あれに関しても自分の自由を尊重して行くのなら覚悟は必要である。

 自由と覚悟は常に同居する。自由を求めながら完全な保護を求めるのはマンガに出てくる世間知らずのお姫様だけでいい。

家族の責任

 家族とは個人が生まれたときから所属する社会の一部である。家族は基本的には血の繋がりであり種の保存からくる責任を持つ。しかし現在ではその意味合いは小さく、家族と言えども個人が尊重され個人間の関係性と変わらないものになりつつある。

 家族の責任で最も重要なことは年長者による年少者の保護だ。近頃ではどんなに小さい子供でも個人間の関わりになってしまい親に従うしか無い状況になっている子供も見かけるが、思春期以降の友人を見るとリカバリはできているようでもある。

 親子、兄弟、親類の責任は保護と恩である。

企業の責任

 企業は家族の次にある個人の所属である。個人、家族、社会の3層表現では社会に含まれる場合と家族に含まれる場合があり、その責任も複雑になる。

 家族としての責任としては報酬がわかりやすいだろう。報酬に何を含むのかで大きく性質がかわるが、生活の大半を占める仕事は企業側の言い分を考える前に個人の覚悟を反映したいところである。

 社会としての企業は個人または団体との関係を運営と消費者と言う形でみる。 少し前まで運営は常にかなり高い質のサービスを与えることに責任を持っていた。しかしこの頃はサービスの質ではなく、高い感情値を与えることに代わりつつある。高い感情値とは簡単に言えば満足度であり、それは単にサービスの質が高ければいいということではなく消費者との関係性や期待などが含まれる。

 また社会としての企業はミスに対する処置が責任の大きな揺らぎになる。ミスや不祥事というものは複数人が運営することからどこでも起きうることであるが、その対処は予め決められた事以上に消費者に対してどう思っているかがでる。簡単に言えば付き合ってからの男が冷たいか優しいかと言うことである。

社会の責任

 社会は個人から見た世界全てである。特に身近な企業や行政などが目に入りやすい。社会の責任は大きく見た大人と子供の関係である。団体は大きくなるほど力を持つためそれを大人とし単位の小さい個人は子供である。社会は個人を守る責任がある。しかしそれは子供同士の喧嘩を全て処理するようなことではない。

 社会は個人の自由を尊重しつつ守るという難しいバランスを取り続ける。そのためそれは場合に拠っては自由を取り合う争いにもなり過保護という独裁にもなる。

 社会は一つの様に見えるが集合体である。1人の人のようであり、細胞の集まりというようなことである。個人は社会に対し多くを求めがちであるが、生まれたがん細胞一つを絶対に許さないというのは難しい問題である。

立場の責任

 人は個人でありつつ社会でもある。同じ様に家族であり企業でもある。どの立場で何を言っているのかは誰にとっても難しいようで個人的な思いをしゃべるだけの企業発表もまま見受けられる。

 そのとき必要なことが覚悟ということになる。 我々は関わりを切ることの出来ない共同体でありつつ、覚悟を持って行動すべき個人でもある。目の前の人がどこから喋っているのかを考えると関わり方も変わってくる。

 主張は個人

 こういう事を含め自分という単位は常に覚悟を持つべき個人である。相手がどうであるとか相手の立場がどうであるとかは個人が決めつけて言うのは凡そ無駄な主張にしかならないので注意が必要である。

 それはつまり普通はこうするだろう、こうするのが常識だということも無意味であるということである。

「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる