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愛と仕事と金

究極の幸せな愛

究極の幸せな愛を求めてみる


私は結婚していませんがそれなりに恋愛をしたり結婚している人たちを見てきました。別れたりひっついたり浮気したりされたり騙されたりとその結果は必ずしも幸せではなくて不幸を背負っている人も少なからずいらっしゃいます。

今日は様々な人たちの生き方から究極の幸せな愛について考えます。

ラヴァーズ・ガイド―究極の愛のすべて…愛する人々へのメッセージ


今日のメニュー

  • 究極の幸せってなんやねん
  • 愛ってなんやねん
  • できる事とできない事
  • という事は?


究極の幸せってなんやねん

いきなり重すぎるところを突いてしまって悩んでいる私です。
幸せなら色々思うところはありますが究極とか言っちゃうと慎重になりますね。しかし弱腰になったところで自分で書き始めたので続けていきます。

幸せとは一言で言えば感謝できる事だと思います。楽しい事笑う事色々言えますが、それ以外の辛い事などを含めて感謝できれば丸々幸せでしょう。

しかし感謝すればいいと言ってありがとうを毎日たくさん言いましょうみたいな事は言えません。私自身あれで幸せが増えると感じられないし思えないですね。

そして幸せを究極にしようと思うとこれがどうなるのか。
突き詰めた感謝と言い換えてみると生きる事を感謝する、自分の生に感謝するという事かもしれませんし、もっと大きく世界の存在に感謝する事かもしれません。

それが出来れば究極の幸せが手に入るという事でしょうか。


愛ってなんやねん

幸せと同時に愛も固定する事の難しい言葉です。ある人は変わってしまう愛というものはその時点で愛では無かったのだとも言います。

私の見解では愛は表出する部分は変わるが存在は変わらない。そしてそれを表現するなら自分の根底を信用し相手の根底を信用し覚悟するという事かもしれません。

人の表面は絶えず変化します。年齢的にもそうですし経験や状況によって人の言葉も愛も見た目では変化します。それは本気かどうかとは別の問題です。一方で小さい子や動物、自然などを可愛がるような本能は欠落する事なく存在すると言えます。子供嫌いやポイ捨てをする人がそれらを持ち合わせない事とも別の問題です。


できる事とできない事

人にはできる事に限界があります。といってもほとんどの場合自分がしたくない事を限界と言ってるだけの言い訳です。出来るわけがないというのもほとんどの場合言い訳と言えますが、そう言う事で次の行動に移れるのなら悪い事ではありません。

言葉は選ぶことができますし相手から見れば愛が表出したものかデマカセなのかはわかりません。
我慢というのも我慢出来ないと簡単にいう人が最近増えていますが、我慢という言葉を使わない時には我慢していることが多くあるので、出来ないという言い訳で自分に言い訳をしているものといえます。


それぞれ練習が必要ですが理性的である事、丁寧である事、大胆である事などは誰にでもできる事です。


ということは?

という事で覚悟を持って自制し感謝をする事で究極の幸せになるそうです。

感謝についてはしてるしていないという部分にも表出しているかどうかという話があるので、自分が今どう思っているかは無視してください。

万人が感謝をするときを言葉で言えば自分に都合のいい事をしてもらったと自分が思ったときです。

あとはどうすればいいかわかるな?