覚醒=成功ではない
先に行っておくと自分で覚醒した!とテンションが上がるときは大抵覚醒はしていない。
残念。
自分の状況を悲観している時ほど覚醒感に飢える。
状況を変える一手に困ってだす答えがもがくことよりも自分の中の何かになってしまうのは非常にもったいないことである。
困窮すれば何かが生まれるということもある。しかしそれはその状況で研ぎ澄まされた試行錯誤から生まれるのであって、願えば叶うようなものではない。
覚醒
ここで言う覚醒は「気づき」などと言われる場合もあるし、それ以外にも語り部によって違う言葉を選びたがる。
何であんなに人とは違うアピールがしたいのか知らないが、読み手にとっては迷惑な話だ。
さておき、覚醒に自覚はほとんど現れない。あるとしても後々そう思うという程度でリアルタイムに感じられるのは興奮である。
テンションが上がるといってもいい。
覚醒はどちらかといえば集中することで、行動や思考の邪魔をすることはない。
覚醒と成功
覚醒の結果は成功に結びつきやすい。かと言ってイコールで結びつけるにはいささか容易過ぎる。
それは覚醒が集中であるならいくつかの結果は出ても不思議はない。
しかし、その結果というのはトレーニングのようなものだ。
成功のためにそのトレーニングを積み、思考や習慣が十分に育てば、次の段階として成功と言える場所にたどり着く。
その場所にたどり着くのは乗り越えるものは多く、時間もかかるので、いずれ覚醒は解け途中で満足してしまうのが関の山といえる。
つまり覚醒は成功ではないとはいえ、成功への道であることは間違いもなく、諦める段階でもないということだ。
小さな成果しか出ないと嘆くのは、まさに視点のズレた思考に陥っていて、小さく進んでいることに喜びと次への力を感じてまた覚醒へと繋がなければいけない。