対多のコミュニケーション能力
コミュ力と省略して言うと、いかにも仲良く過ごすための能力に見える言葉である。
しかしそれは結果としてコミュニケーション能力として見られるだけで、言ってみればその能力の表側である。
つまり普段語られない裏側がコミュニケーション能力には存在する。
勘違いが多い事なので先に言ってしまうが、それは言うことを聞かせる能力ではない。指示をする能力、リーダーとして導く能力などもあるが違う。
またネット上で全ての人がメディア化したりコンテンツ化する中で対個人ではなく、対多のコミュニケーションも考える必要がある。
今日のメニュー
- コミュニケーションで起きる現象
- 求められる結果 楽しみ
- 身につけるコミュニケーション能力とは
コミュニケーションで起きる現象
- 放出と吸収
- 衝突
- 交換
- 融合
- 反発
- 食い違い
コミュニケーションは人との関わりなので様々な現象がある。まずコミュニケーションは放出と吸収から始まる。
そして情報の衝突が起きる。ぶつかった情報に対して融合か交換、反発が起きる。
その際情報の食い違いが起きる事はほぼ100パーセントであるが、度合いによって無視されたり次の情報で解消されたりもする。放出側、吸収側どちらかの補足によってほとんどの食い違いは解消できるが両者共に食い違いの認識に至らずに終わる事も多い。
無意識下での情報の強要による食い違いも多い。
好きという言葉は振り幅が広く食い違いを起こしやすい。
また好きかどうかを聞く事によって得る好きなどが無意識の強要である。
反発は情報の否定だけでなく、感情によるものもある。情報の正否に関わらないので全てを回避する事は不可能である。また意識的に反発を招く事も可能である。
これらの現象から見れば歌手によるライブの盛り上がりはパフォーマンスによる放出とオーディエンスの吸収。そして衝突した結果の融合、反発による盛り上がりであり、パフォーマンスの受け取り方の個人差が食い違いとして起きている。
教師の場合情報は知識であり吸収側の生徒との食い違いがテストや態度として食い違いと融合、反発などを見られる。
こうした対個人以外のコミュニケーションでも現象として見れば変わりない。
求められる結果
コミュニケーションによって求められる結果は大きく、共感と理解と楽しみである。
共感とは正しく理解する必要はなく感情に響けばよく、宗教から音楽まで必要とする場面は多い。
理解は教育的側面もあり、一般的なコミュニケーションでもある。逆に音楽などの芸術では理解は不必要でもある。
楽しみはコミュニケーションおいては雑談などの娯楽やリラックスの場面である。特に共感や理解がなくてもその場面では問題にすらならない。しかし教育的場面では理解に至る道として利用されつつ理解に至らないという事も生む。
これらの結果はコミュニケーションで得られる利益である。場面ごとに必要な結果を求める事でも利益は得られるが、大きく見直す事である場面で得た経験や情報が他の場面で生きる事にもなる。
逆に大きく見る事ができなければ一つのステージでは活躍するが、他では全く役に立たないという事にもなりえる。
身につけるコミュニケーション能力とは
ある場面に限定すれば、いう事を聞かせる能力であるとも言える。しかしライブで手を振らないからといって盛り上がらないという事でもなく、授業中に弁当を食べたからといって理解ができないわけでもない。
コミュニケーション上の利益を得るために、利益をはっきりさせる事は当然必要な能力である。
更に、誰か一人を想像したコミュニケーションによって利益が大きくなると同時に強くもなること。そして一つの場面で幾つかの方向からアプローチすることで利益は最大化する。
教師で言えば体感させること、記述させることなどである。ライブで言えばアップテンポの曲とバラード、MCなどの側面である。
相手が増えるほど、吸収される情報は多面的になりプライバシーは消えがちである。しかしそれも意識しておくことで自分というコンテンツをコントロールすることができれば問題ないことにもなる。