読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

素敵なはなし

素敵な話になればいい話、色恋と仕事

偉大性を得る思考

偉大になりたいという思考は男の標準装備であるというのが今のところ世の中の理解である。

自分が何と言おうとこれはほとんどの場合間違いないことで、相手を組み敷きたい勝ちたいという思考を基礎にしてスタートしている。

 

しかし現実には多くの男は矮小で姑息で意地汚い。言い過ぎと思われるかもしれないが、男はこれくらい言われておいたほうが収まりがいいので構わない。収まりがいいというのは勝気な思考を元にしている男が潔く行動するためにはそれ以上の存在かそれ以下の存在感強めに出しておく事が必要だからだ。

女性のマウンティングが話題になったが、男は実務的にマウンティングを要しているわけだ。

 

もし上司が柔らかい人物で仕事がやりやすいと言ってもそれは自分が上に立っている気になれるというだけの事である。これは意地の綺麗汚いという話ではなく上下を決める事から自分の動き方が決まるという思考の順列の問題だ。

 

女性でもこういったものがないわけではないが、女性の場合は一歩身を引いて思考する。これはこれで冷静に判断している場合はいい仕事をするが、裏を返せば陰口が多いという事に繋がる。一歩引いて発言する事が余計に陰口という印象を強める事になる。


前置きがいつもより長くなったのでそろそろ本題である。

性エネルギー活用秘法―偉大なる神秘パワーの活用で超人が出現する (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)



今日のメニュー

  • 偉大さとは
  • 世に隠れた偉大性
  • 思考


偉大さとは

一言で偉大と言っても想像する人物像は様々である。
ナポレオン、ジャンヌダルク福沢諭吉天皇など名前を見るだけで十分でその違いを感じる事ができる。それ以外にも現代では企業家や投資家も偉大であろうし、思想家や芸術家も偉大性はもちろんある。

これらの名前から共通した偉大さを見つけるとしたら何があるのか。


腕力、知力、指導力、創造力それはジャンルによって変わるものではまとめた事にならない。

それらの要素すらまとめる言葉。

 

それはずば抜けた個性。それでも実は足りない。個性の強い人物が偉大であるなら少々困った自分物も偉大であると言わざるをえないからだ。もちろん偉大なる嫌われ者という類のジャンルもあるのだし、偉大さは正しさではない。

 

しかし偉大なる孤独というような言葉で表される事は避ける必要がある。偉大さは誰かに判断されてこその偉大さであるからで、嫌われる事はありでも一人でいることはなしだ。思想から社会の中で孤立することはあってもただの孤独ではいけない。

ネット弁慶でもネット内で偉大であるなら孤独ではない。

 

つまりずば抜けた個性とそれを見る人が必要だ。不意に御輿に担ぎ出される事もあれば、自らの意思で担ぎ手を作り出す事もある。

 

偉大さとは個性と評価である。


世に隠れた偉大性

 そんな偉大性にも小さい中でしか偉大性を発揮できない個性もある。


いかに偉大であろうと社会そのものが小さい場合があるという事だ。例えば教師はその多くは世間一般の大衆が顔と名前を知ているような事はない。精々関わった親子供と教育委員まで。

 

その後政治家として、または演説会としてなど各方面に顔を出す方もおられるがごくごく僅かでそれはまた別の偉大性の話である。

 

たとえ知られなくても教師によって生まれた偉大な子供、知識、思考は多くあるわけで、全てともその多くとも言えないが偉大な教師はいるだろう。

 

また別に、組織の中で繋ぎ役として偉大である人はほぼ外に出る事はない。知る人ぞ知るという意味で教師の偉大さと同じ性質であるが、教育と違うのは思考の間に立つ存在であるという事だ。

 

強い組織には必ず偉大な繋ぎ役がいる。彼らはトップ同士の繋がりを有益にする者であったり、チームの力を最大にする者だ。


彼らのような隠れた偉大性は知る人ぞ知る、知らない人は全く知ることはない。

 

思考

 自分がそういった偉大性を持つということはどういう事だろうか。

強い個性と評価を得るための思考とはなんだろうか。

 

「個性とは自分が個性だと思う物を全て捨てて最後に残った物が本物の個性である。」この言葉を見つけた時の腑に落ちる感覚は投げた野球玉が壁の節の穴を抜けてその奥に当たって同じ道を通って帰ってくるような物だ。


こんな古い漫画の表現を使っても伝わらないと意味はないので言い直すと、達也と南ちゃんが早い段階でちゃんと付き合うようなものだ。結局古い上に今度のは無理矢理感がある。

 

普段個性だと自分が思っているようなものは所詮後付けの物だ。これが自分だからと意固地になる人もいるが変わる事、こだわりを捨てる事は個性を捨てる事ではない。

 

作曲家は既にどんな曲を作ってもそれ以前のどれかと近くなる事を知っている。しかし個性があるのはそれまでに個性だと思っていた何かを捨ててきたおかげだ。

 

その行為をわかりやすい言葉で言えば「チャレンジ」に他ならない。


そして評価は他人からもたらされる。さらに難しいのはその評価が何であれ構わない。いいと言われようが悪いと言われようがどちらでもいいのだ。評価は感動を生むほどの強いものであるかもしくは大衆に届くほどの多くの評価であれば偉大なのだ。

 

評価の良し悪しは自分の行動に影響を及ぼす。それもまた次ぎの評価を生むための行動になるだけである。

 

悪いと言われバカがと罵る事もできる、何が悪いと言われたのか見直す事もある。その結果偉大さが失われるか新たな偉大さを生むかは次の評価までわからない。

評価を得るためには常に自分を外に出していかなければならない。

 

評価は集め続けなければいけない。一度得た個性も変わり続けなければ次の評価は得られないし個性も弱くなる。

つまり偉大さは一定である事はない。

 

強い個性と評価はチャレンジし続ける事と自分を晒し続ける事が必要である。


それを叶える思考は、自分をコントロールする思考と答えを自分の中から見つけ出す思考。


多くの人は自分を知っていると言いながらコントロールできず、成果は自分の者で失敗は環境のせいとしている。偉大性を生む事は自分を見直す事もからしか生まれない。