自己主張しよう モテる原理より
確認してみたら半分も完成してないのに文は多いです。お気をつけを。
自己主張するということ
自己主張をしようというのが主な私の自己主張です。
自己主張とは何なのかを真面目に考える機会はあまりありません。考えてみると単純であり触れたものこそ考える機会は少ないんですね。
ここでは自己表現について、その効果やここでの定義を見てもらいたいと思います。
- 利益を守り
- 自分の正義を守り
- 誤解(問題)を起こさない
まず自己表現は普段の行動の総称であると認識してください。
起きて、食べて、日常、時々に起きるイベント、寝る、寝ている間も。その全てが自分であり、それら全てで自分を作ることを意識することです。
自己表現をすることは自分の利益を守り、主張、正義を守り、自分が起因する予期せぬ誤解を防ぐ。そういうものです。
同意はなくていい
自己表現は自分をいかに見せるかという技術であると同時に、自分にのみ意識を向けるものです。
周りに見られるものを決めたら、あとはどう見られようと気にするものではありません。それは好きと伝えてもそれが友達の好きなのか、恋愛感情なのかを上手く伝えられないようなものです。
自分と相手との差は、あらゆる環境で育っていますから見られ方の大筋をしめせばその先は悪意も善意もないただのすれ違いです。
すれ違いのないコミュニケーションはありませんしね。
修正したい反応はまず、じぶんの自己表現を見直し、変わらなければ伝えればいいんです。
ただこうなんだと、言葉と目と行動で。
反応を求める
とはいえ反応は確実に収集して行きましょう。
お世辞だろうが、嫌味だろうが、全ての言葉を敏感に吸収して行きましょう。
どうせあなたは間違っています。
反応が間違っていて、表現した側があっているなんてことはありません。反応したものが全てです。
自分の伝えたいように伝えることが、伝えたい通りに伝わることがあなたの自己表現のゴールです。
自己表現すれば反応がないのも反応である
反応を求めると言っても、反応されないことも反応の一つです。
例えば歌手が歌を歌って無視されれば、その歌には魅力がなかったということになります。
この歌手は次の歌に挑むのか、歌い方や、歌う状況を変える努力が必要になります。
あなたに対する反応がないなら、あなたは反応を得るための影響力を広げることが必要だということになるでしょう。
ある人は反応のなさに絶望し死を選ぶこともありますが、あなたはここにいます。
これから自己表現を鍛えるんです。
見つけてしまった。見てしまった。あなたは死を選ぶ暇もなく自己表現をどんどん磨いてください。
声だ、言葉だ、音楽だという表現に魅力がなければ反応はないでしょう。
感情を刺激することができれば、相手は何かの反応を示します。怒りも、反発も感情を刺激できたという証です。
自己表現する
環境を知れば、自分も見えてくる自分とは周りから見た自分。世の中からすれば周りから見えている自分が全てであるので、わざわざ個人的な趣味や性癖を語る必要はない。しかし何も語らなければ自分は誰にとっても自分であることすらない。哲学的なことでいえばシュレディンガーの猫のようなものだ。箱が閉まってしまえばそこにいるかどうかはわからない。見えている事が重要なのだ。自分を見せることは何よりも重要である。自分が自分であることを見せることが全てであるので、詐欺師は自分をあたかも宣教師のように振る舞うこともできるし、相場師のようにも振る舞える。自分が専門家でなければそれがバレることすらほとんどない。
とはいえここでは自分を偽る必要もないし、欺く必要もない。自分がどんな人間なのかを相手に伝えることができればそれだけでいいからだ。自分が泣き虫で甘えるタイプなのか、映画好きで映画館によく行くのか借りて見るのが好きなのか。
あいつは自分を良く見せるのがうまい。と思った事はあるはずだ。卑怯だと思うことだろう、自分だってと悔しいだろう。
そうでないならあいつの言うことをさらっと聞いておこう。腹も立たず、気分も良好で、あなたは平和だ。それができないなら、できないから。
自分をもっとだそう。出し方を学ぼう。
さぁ自分を主張し自分を守り、誤解を与えない明確な自分を植え付けよう。
まず自己表現する事で得られるものをまとめてみよう。
得られる物と得たい物、見直す事、変えたい事を明確にして行く事であなたに欲が生まれ、モチベーションが生まれ行動が生まれる。
表現することは最終的に世界をかえることができる。突飛なことを言えば、世界制服も世界平和も自己表現によって可能だ。
何がどのように達成されるかはここでは置いておくとして、それだけのポテンシャルをすべての人が自己表現によって得ることを知っておく必要がある。
未来はあなたの自己表現にかかっている。
利益を守る
まず自己表現は自分の利益を守るためにある。それについて否定する必要はない、実際には”したたかに考えて生きる”ということに否定的な人もいるのでそれを前提にしておきたいと思う。
利益と言ってもしめしめと悪どい事を企てる事ではない。見てもらいたいように見せる事、伝えたいように伝えることという意識していないが常日頃からしている事を意識するというだけのことだ。
守ろうと思う利益を明確にして、本質的なものがわかれば必ずそれは守られる。
正義を守る
理解を求めることはあっても、同意を得ることではない。理解と納得は別である。わかっても自分の信条、心情と合わなければ納得は得することはない。それは世の中にいるほとんどで同じだ。理解し合える、気が合うというのはマグレに奇跡をかけたようなもので、そうそうあるものではない。
他者を守る
誤解を減らすことで、要らぬ心配や不安を周りの人から取り除く。きちんと伝わる事は自分だけに得なのではない。伝えた相手が無意味に傷ついたり、悩んだりする事を減らす事にもなる。と、こういう事をいうと相手の事なんか関係ないと言ってくる人が多い。何を悪ぶっているのかわからないが実に面倒な人だなといつも思う。そしてそういう人こそ、きちんと伝えなければいけない事をないがしろにしておきながら伝わらない事に不満を漏らす。
目的
- 植え付けること
- 褒められることではない 評価は自由
自己表現をすることはいかなる効果をもつのだろうか。自己表現により出る影響は自分と他人とにわけておく必要がある。自己表現による効果は、要因の一つに人の単純さがある。人は目に見えるものを信じる。そうではないという人もそれまでに見たものによる経験によって決断を得るのでこれまでに見えたものが重要であることはすぐにわかる。
その人間に対して、自分は表現を行うのである。
普段はそれと考えずしている行動を、しばらく注意して行うことでその効果はおきる。
それは刷り込み、または植え込みである。
看護師という仕事をしている人は、それを知られるだけで面倒見のよさや、医療知識を持っていることを印象付けられる。すんでいる家の周りにゴミが散らかしてあるならば、粗雑で不潔な印象を得る。そういった印象の積み重ねは、知らず知らずのうちに相手の判断に影響を与えるのだ。
人の思考とは単純で深い。
そしてそれは自分に起きる効果の方が大きいことを重々認識してもらいたい。
単純な言葉で言えば、人の思い込みは明らかである方が大きい力を発揮する。
それは思うより言葉に、言葉だけよりも文字に、抽象的でなく具体的に表すことで「自分への刷り込み」は力をます。
また、自己表現による目的は人に褒められることではないことを知ってほく必要がある。
モテる原理全般に、人に評価されることが目的になっている。しかしそれは褒められることではない。
自分の発信した表現に対して、「必要な評価」を得ることが目的である。
必要な評価とは「お金だけで動く人間ではない」ということかもしれないし「身内になってしまえば力強い」ということかもしれない。
商売でイメージをコントロールしているビジネスマンはいるだろうが、それを自然に私生活に持ち込むことである。
俳優のように、自分自身を思っている人間に作り上げてしまうのが自己表現の力で目的だ。
そこには自分の明確なイメージと、表現に必要な言葉を知っていなければいけない。
もし自分が小説家やなんかのように表現をなりわいとしていないのであれば、表現のプロに言葉選びそのものは任せるべきである。
それほど表現をすることとその内容である言葉は重要である。
すべき主張の内容
自己 表現をどんどんしていこうとはいっても、自分を卑下していては評価を下げるし他人を評論していても自分の評価が下がる。
言えることを好き勝手にいうということではなく、最低限のルールを守ってひょうげんしていくことがひつようである。
まずは主張すべきもの、表現していくべきものを見てもらう。
頑張りの暗喩
自己の評価を高めるのに一番多い間違いは、自分の頑張りを直接的に表すことだ。自分が頑張っていることは自分からではなく周りの誰かから伝えてもらうことが一番いい。自慢にもならず嫌味にもならず自分の評価をあげてくれるからだ。
そうするためには二つ方法がある。
- 自分のことを直接表現しない(暗喩)
- 直接言いたい人の周りの人に相談する
一つ目は言い回しを考える必要があるので、練習が必要かもしれない。二つ目は言いたい人物にその場で言わない我慢と、周りから伝わるように待つ我慢強さが必要になる。
人生のほとんどの問題は、恋愛から考えると理解していることが多い。恋愛で相手に興味を持ってもらいたい時、何でもかんでも自分を出すのはご法度だ。自分の素晴らしさは伝わるように、柔らかく伝えるのがいいし、外堀を埋めるという事があるように友人知人に助けてもらうことも効果がある。
技術的なものを考えると、暗喩はかっこ「自分の成果を連想するもの」を言う。成果そのものを伝えることはない。その言い回しに失敗すると余計に面倒な人間だと思われることになる。
周りの人に相談する場合、『悪い評価をされていたらどうにか挽回をしたいがどうしたらいいか?』『頑張っているがわかってもらえているだろうか』ということを言ってみる。
具体的な成果
いくら伝えるものが多くても、伝わらなければいけない。つまり伝える内容は明確であることが原則である。
評価は自分からみて頑張ったかよりも、相手がどう思ったかである。そのため誰かと比較して睡眠時間を削っていようと、努力をしていようと、そこを評価されることは難しい。
自分のwantsとしてneeds
自分が欲しい状態を人に押し付けることはいけない。
結婚して欲しい相手がいあるとして、まだ何も関係を構築できていないのにプロポーズするのはロマンチストな外人さんだけでじゅうぶんだ。まずは結婚後のイメージを聞いてみたり、相手がどんな風に過ごしたいのかを、普段の会話で聞き出す。
自分のwantが相手にとってneedとして成立するのを目指す。完璧は目指さないが、限りなく完璧に近づくことは目指しておく。
この自分のwantは、”嫌”な部分でも考えなければいけない。
して欲しくない、やめて欲しいというネガティブな思いも相手がしない方がいい、してはいけないと思わせることができればいい。それはするな、やめろ、という意見の押し付けだけでどうにかならないのはすべての人が実感していることだ。
ダメ主張
主張をしようとはいっても、やり方を間違った主張はマイナスにばかり働く。主張は内容と方法が必要だ。
結婚したい相手に「なんで俺と結婚しないんだ!?」と突然どなる人はいないだろう。もしすればこいつはヤバイと思われるだけだ。警察のおせわになるかもしれない。
そんな人生のゴムなしバンジーには挑む必要はない。ゴムはちゃんと用意しよういろんな意味で。
さて幾つかしてはいけない主張を示しておく。参考に自身の過去を見直したり、これからしようとしているものが入っていないか考えておこう。
明らかな成果
おしつけ
理解されない
相手を理解してない
知ったかぶり
成果
自分の成果をあからさまに主張するのはウンザリするものだ。これ見よがしにおかれた表彰状、何年も前にとったトロフィー。
自分のできることは伝える必要があるのに、必要以上な情報は目障りになる。人の感性はなんとも面倒なものだが、それをどうこうできるものではないので、成果は自分が何についてすごいのか伝えるだけにとどめよう。
おしつけ
自己表現は自分だけのものだ。同じ意見もあるし反対もある。
賛同していると思っていたら実は逆だったなんて意見はどこにでもある。それは裏切りではない。
自分の意見はさらっと出しておくにかぎる。ホリエモンは通し方がうまいのでつうじるだろうが、誰でもできる芸当ではない。
元々押し通ることができるのでなければ、身につけることは相当な人数を実験に使うことになる。
理解されない
自己表現に一番多い間違いは伝えれば理解されると思うことだろう。愛情は
伝えても理解されなければ意味はない。そしてどこまでも自分の主張をし続ける。
しかし主張はあくまで自分の経験と知識からでてきたものだ。全員が同じ表現にいたるわけではない。
理解は人間として認められるか、相手の経験と知識に合わせた説明が必要だ。
相手を理解してない
相手ありき。それが対話であり、コミュニケーションだ。伝えたければ相手の言葉を使い、相手の歴史を知るのがいい。
これだけいうと海外の人を相手にするような言葉になるが、同じ日本人でも変わらない。地域性、経験、家族、友人知人すべてがあってその人になっている。
理解することが理解してもらう近道だ。
知ったかぶり
人より優位に立ちたいとき、知ったかぶりをする人は多い。ほとんど場合それはばれているか、すぐバレる。
ばれたときに知ったかぶりを補ていればいいが、それができないなら知ったかぶりをはじめからするべきでっはない。
結果的に自分の言葉が通じなくなるなら、自分の足りない知識や間違いはさらっと認められる方が大きく見えるのだからその方が得をする。
主張は言葉がすべて
態度は不要
主張の段階で誤解をさせない
伝わる言葉
専門用語を疑う
権威を借りる
あえてわからないふりで余裕を作る
態度は不要
人は見た目が9割 そんな本がある。それ以外にも見た目に関する書籍やビデオなどは後を絶たない。
その潮目では見た目は不要になることがある。ブログや、動画作品、といった自己表現により作者が認められる、そしてそれはsnsのようなやりとりで会話をしたような関係性が生まれ、安心感を生む。その後その潮目が爆発するには、本人が見えることが一番力を持っている。しかしそこまでの下地を作ることはどこの誰によってもできる。
見た目は最後に持ってこれるのだ。自分の振る舞いや見た目の重要度は下がっている。
主張の段階で誤解をさせない
主張には色々な手段がある。直接会話をすることもあれば、動画を見せるということもある。ブログや、作品群を見せることもある。
しかしその中で、炎上マーケティングと言われる手段をとらないのであれば、誤解はさせない方がいい。
終着点から逆算された中での誤解させることは誤解といわないので、それをのぞく。
意見が違うことはかまわないが、意見が違うと思われてしまうことはNGだ。
そのために表現はしっかり練り込むことが必要で、どんな表現を使うのか選べるだけの知識はもつ必要がある。
伝わる言葉
最近のJーPOPは言葉が軽い。そういうことはキャリアのある歌詞作家などにはよく言われることだ。
しかしそれは自らが招いたことでもある。
日本語では使わない表現が大量に存在し、それでしか表現できない言葉もたくさんある。
しかしそんな言葉を使っても相手がにんしきできなけば意味がない。
そのためわかりやすい言葉が多用され、特に伝える必要があった歌詞は簡単なものになった。
そして一般的に使用される言葉もそのながれにのり、単純化。理解される言葉は非常に減っている。
しかし表現する側はそんな言葉を使う必要がある。
伝わって行く中で使いたい表現を増やしていくことで、表現したいものを間違わせないようにする。
専門用語を疑う
誰と会話をしてもこの人は伝える気がないんだなと思うことがある。それは専門用語を多用する人だ。
そして専門用語でしか表現できない人も伝える気がないと感じる。
他の言葉を使い分けるわけでもないのに妙に単語だけ外語だったり、装置や機材などをその名前や、有名ではないメーカー名を連発する表現は何も伝わらない。オナニーに等しく、独り言と変わらない。
専門用をどうしても使わなければいけないときは、簡単な説明をつける必要がある。
権威を借りる
自分が何者であるかは重要である。表現する時、歌は無名な人が歌うより有名な人が歌った方が聞く人が多い。中学生に諭されるより、カウンセラーに諭される方が納得しやすい。
人類の文明はまだまだ短い。しかしよほど革命的なものでなければ、ほとんどの表現はされている。まずはそれらを引用して権威を借りることで相手に表現を理解しようとする態勢を作ることができる。
たとえ自分の言葉であっても、時々伝聞化することは非常に有効である。
あえてわからないふりで余裕を作る
表現する人は万能ではない。ごく僅かな天才を除けば全ての知識を持つ人もないし、すべてを予定だてられたような表現は退屈だ。
とある業種でトップの営業マンに話を聞いたことがある。
その人は話がとてもうまく、全てが完成したように話すことができた。完璧だった。
しかしそれでは営業で売ることができなかったという。その人がトップになるためにしたことは、完璧に話さないことだった。
人はど忘れすることもあれば、わからないこともある。そうそうあれあれ、といった言葉が親近感を生むことがある。
それすらも会話術として組み込んだというのだ。
人によってはそれをしてしまうと話が何が何だかわからなくなってしまう人もいる。
しかし、全てを語るだけがいいのではないことを頭の隅に置いておくといいだろう。
そしてこれは表現すべてにいえる。
全てを語らない絵や、歌はその物語を想像させることがある。
それぞれが勝手に想像することで、相手の自分なりの納得を促すことになる。
受け止められ方
自己表現は自分のものだ。
特定の相手には伝わるようにするが、キャラ作りとしての自己表現は正確に伝わるとは限らない。
はっきり物をいう人が好きな人もいれば、その逆の人もいる。
女性らしさ、男性らしさなどという言葉をよく使う人もいれば、それらを嫌う人もいる。
つまり万人に好かれる、理解されるというのは虫のいい話でほとんどのことはそううまくいかないということだ。
今あなたが、納得しようがすまいがこれは変えようのない現実である。
表現にはまずゴールがある
どう感じて欲しいのか、それは「魂が震える」というような曖昧な言葉ではない。
結果として様々な感じ方をするのは自由であるが、求める感じ方がなければたどり着く感情もない。
- どんな言葉(色、音、物)を使うのか
- どんな表現(ジャンル、形)をするのか
- どんな状況(見られる場所、時間)で使うのか
- どんな人(自分との関係、人数、年齢や性別)に使うのか
それぞれについて先ずは簡単に考えてから、表現とそれぞれのゴールとを繰り返し練り上げて行くことが表現を高める近道である。
不特定の人に表現する場合でも、それらの人々を一人の人として考えると表現が伝わりやすくなる。
自己表現をするとすぐに結果が出る。
それは自分の変化ではなく、自分自身が邪魔であるということ。
先ずは気づく、そして考え納得し認めてやっと変化は訪れる。
自己表現が、最初から最後まで登り続けなければいけない山となる。
結果とは全てが必要な情報であるが、全てが自分にとって気持ちのいいものとは限らない。
自分の納得できない、望まない結果から次への情報をしっかり得ることが重要である。
自己表現にとっての最初の結果は「これまで自分」が邪魔だということ。それはこれまでの意図するしないに限らず、振舞ってきた自分が、これから振舞おうとする自分を阻害することだ。
特に、自分を変えたいという時の自己表現は周囲から否定的な反応がたくさん浴びせられる。
それは決して表現が悪とか、相手が悪いというわけではなく、これまでの自分との違いを感じて貰えたということだ。
それに傷つく必要はないないが、誰でも自分の行動に否定されていい気分で過ごし続けることは難しい。
だからこそ、自己表現にとっての超えるべき山は「これまでの自分」である。
そしてそれは表現を続ける限り、いくつ超えても現れる山である。
同じ姿の山かもしれない、全く違うやまかもしれない。しかしそれは全てが過去の自分だ。
歩いていて常に足元を確認している人はいない。
今の自分がどんなものなのか、躓いて転んで踏みしめてようやく足元を確認できる。
ようやく自分に足元を確認するチャンスがきたと喜んで躓けばいい。
行って始めて感じる痛みや苦しみは、変化と進化の合図だ。その瞬間は泣き、苦しむこともいい。
しかし落ち着ける場所でじっくり考えてみよう。躓いて、見た足元がどんなものか。これまで歩いていた道がどんなものなのか。これから歩もうとする自分の足元に何を用意する必要があるのか。
相当あちこちを書いている途中のようで読みにくいというか出来てないですね。
項目がまとまってすらないという驚きの中身ですが完成品確認したら差し替えましょう。