努力を見せる
見えない努力は美しい、けれどそう見えるためには見えなければいけない。
いやはや影で努力している人ってかっこいいですね。しかし影での努力とは言うものの、そう言われるためには見えていなければ評価されないって難しいですね。
見えるものしか見えない
空気って無色透明です。本当は無色ではなくて空気色を透かしてみた色を見てるのでややこしいと思ったことありません? そんな話はともかく、空気は日常意識することはありません。邪魔だとか美味しいとか重いとか空気が何か言われる時は普段気にしない事を気にしてしまう時だけです。
我々は色を見ていますが、見えた色について語ることはあっても、空気の色について語ることはありません。
同じように人についても見えていることについてしか語ることはできません。誰が頑張っているとかサボっているとか見えていることでしか判断できないんですね。
見えない事を語る
語らないとかいいつつ、想像するのが好きなのも人です。あいつは影でこんなことしてそうとか、女慣れしてるから遊んでそうとか言いますね。
人の裏側というのは想像すると楽しいものです。そこに悪意があろうとなかろうと想像する側は楽しんで話します。残念なことに話されている方はいつの間にか想像が本当のことのように認識してしまったりして疎遠になったり実態にがっかりしたりしますね。
しかしそんな想像大好きな人でもほとんど会話に出さないのは人の努力です。もう少し言うと人の良い部分についてはあまり話されることはありません。
努力を見せる
残念な人間達は人の悪い部分を想像したがり、良い部分を想像したがりません。 そしてそういう人は声が大きかったりして困りますね。
努力というのは当然良い部分です。しかも努力は結果に結びつくとは限りません。結果が人より劣っている時に、努力すら見てもらえないとすれば救われるタイミングはどこでしょう。見られるというのは評価されるということです。つまり給料や報酬であり好意です。
そうこれはお金になるかどうかだけでなく、愛されるかどうかの話でもあります。
当然これみよがしの努力は、その場限りの努力は見透かされるでしょう。人より努力そのものが劣っていることだってあります。自分にとっての最高の努力が誰かの10分の1の努力でしかないことだってたぶんにあるでしょう。
そういう努力の大きさに関しては知れただけ得です。勉強です。経験です。それは悪い評価に繋がることだってありますが、努力しているということは伝わっています。そのうちそれが自分にとって最大であるということだって伝わります。しかし伝えなければただサボっているだけの評価です。努力すらしないという評価です。
ある程度の年齢までは努力しなくても「やればできる」と言えますが、成人して社会人になってやればできるは良いも悪いも言う対象になりません。参加資格すら貰えなくなってきます。
努力を見せるということはせめてもの評価材料です。 多くの超人ではない凡人にとっての見せるところであり見るべきところです。