恋は求める愛は与えるっていうけれど
求めるものが違うだけでどちらも求める行為です。
恋の求めるもの
恋は「良さ」を求めるものだとプラトンは言いました。 恋は「甘さ」を求めていると思います。
別に言葉は何だって良いんですが、恋に求めているものは安らぎよりも激しさです。 これは「あなたといる時は落ち着ける」なんて言う言葉とは関係ありません。
ワクワクやふわふわやチクチクとした心への刺激を求めているのが恋。
与えると言うから間違える
そもそも愛を崇高に考え過ぎなのが失敗の始まりです。 愛は強い。愛は素晴らしい。愛は負けない。そうやってどんどん愛の在り方を崇めて来た結果今愛のカタチを許容できる人はいません。
恋との対比で愛は与えるものだというのはかっこいいですが、怒りや悲しみのように明確な感情にできない恋や愛を善の塊のように扱うと固くなり脆くなります。
与えるのは自然なことで愛の中に入っているもののひとつかもしれませんが、愛が与えることとイコールではないことを認識しなければ自分や周りを許す余裕すらなくなります。
愛の求めるもの
では愛で求めているものはなんでしょうか。 例えば「正しさ」先にも書いたように愛として最も言われている内容の中身は正しさです。 正しくいてほしい、正しくありたいという願いは愛の求めているものです。
または「普遍性」愛は代わりのない変わることのないものであって欲しいと願います。しかし人は変わりますし代わりが現れることも普通です。今を大切にすることと今に固執することは別の問題です。
もしくは「結論」愛は明確な姿がないので誰もがカタチを与えたくなります。型にはめ押し込みたくなります。コレが愛だと言いたくなります。別に言うのは良い思考はするべきでしょうが、それが他人の愛のカタチと違うことを受け入れられなくなる原因であることも認識しましょう。
愛は願い
こうしてみるとここでは「愛は願い」というとしっくりくるかもしれません。正しさの象徴であり、満たされた状態の象徴であります。
願いは誰かの正義や夢でありますが、別の誰かの正義や夢とぶつかることもありますね。