本物を持つとホンモノになれるのか。というかホンモノとは何か。
「ホンモノになりたけりゃ先ず本物を持たないとだめだよ。」
何というか、そんな事を所謂上の人に言われた事のある人は多いだろう。
しかし、それは本当にホンモノになれるのか、そしてそれは何故なのか。
と言ってどこに結論があるのかわからないのは読者かま不憫だと常々思っている私としては、いつもより少しだけ気をつけてみよう。
実際に本物はホンモノを作る力がある。そこからスタートをしよう。
そしてそれは。
ホンモノとはなにか
小金を持ち始めたときや、何かが上手く行き始めた時なんかにその世界でトップランナーの人と話をしてみるとホンモノという言葉が出てくる。これは特にいま偽物だとかそういうことではない。
ちょっと鼻につく言葉なのでその時点で萎える人もちょいちょいみかけるが、過剰反応というものでそれこそ自己評価が高すぎるのかもしれない。
どの世界でも、というよりも何をやってもどの段階でもその次のステップを登れるかどうかというのは人それぞれ壁があります。
そしてその壁を登る人の事を、壁を登った人から見て下と感じるのも致し方ないだろう。自分がホンモノで至らないものは偽物。そういう論である。
まあ自分の場所が至る所なのか通過点なのか、それとも間違った場所なのかは本人の認識次第というか好きに言えるものなのでどうでもいい。
自分の位置が低いとか間違っているとかきにする人は精進すればいいだけだ。それまでを悔やんでもやり直すような必要はない。
本物のある状態
本物、例えばお金を稼ぐ人のための集まりでは腕時計や車の話にもなる。
まずそうなりたければ1つはいい時計を買い、1つはいい車に乗り自分をそのステップに立たせるのだと。
その前後にも色々ご高説があるのでその気になる人もいるし、やけくそでそうする人もいる。
本物を持つというのは確かにそうなる力を持っている。千円の時計をつけていた人間と百万円の時計をつけている人間ではやはり気の持ちよう、思考経路に違いが出るようだ。
しかし、無理矢理に本物がある状態を作るのは言って仕舞えばというか、この時計の話で言えばまごう事無き事実でもあるだろうけれど「借金」だ。文字通り借金なので勘違いをしないでいただきたいが、金銭的借金を問題にしているのではない。
今手持ちにしている本物はその借金を返し終わるまで本当に自分のものにはならない借りの状態だ。そしてそれは心も同じ事だ。
味わうために、ただ感じるためだけに持つのであれば無駄になる。というよりも気持ちの借金が自分を焦らせたり登るステップとして高すぎたりしてポキっと折れる原因にもなる。
本物は持つ方がいいかもしれないが、手に入れる手段こそ「ホンモノ」である必要がある。
ホンモノになるには
ではホンモノになるにはどうすればいいのか。しらん。
最初に言った通り人によって自身の場所は到達点にもなり出発点にもなる。結婚がゴール何ていうのも意識が到達して仕舞えば後は終わるしかない。
物での話に終始したが、本物は経験でもある。絵描きは本物をたくさん見る方がいいだろう。物書きはたくさん言葉を見た方がいいだろう。
そういえば教師は常に残酷である必要があるという話を混ぜてみる。生徒にはその瞬間はまさに一度しか通れない道であるが、教師は次の生徒のためにもその一度を常に実験に使う。本人にその意思がなかろうと、教師としてはきっとその方がいいように思っている。それは本物の経験だと思うから。
何かを犠牲にして経験を得る事はある。しかし犠牲の大きさは自分に背負えるものでなくては自分が潰れるだけである。立場が人を作る事もある事を思えば、その犠牲の大きさは試してみなければわからないともいえる。
そして犠牲を小さいものから少しずつ大きくしていくというのもまた本物の経験だ。自分の背負えるものを知る事でチャレンジもできる。耐える事もできる。
背負えるものの大きさは人を大きく見せる事がある。それを人は「ホンモノ」と呼ぶのかもしれない。
つまりホンモノになるにはチャレンジの積み重ねだ。